Outdoor Exhibition

屋外展示

博物館の裏庭などに設けられている展示場には、塔や仏像、石碑、石槽など、多くの石造遺物 が展示されています。
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부여석조 이미지扶余石槽Buyeoseokjo(Stone lotus bowl of Buyeo)
  • 指定分類宝物第194号
  • 原位置扶余・官北里王宮址(推定)

石槽とは、長方形または円形の石をくり抜き、寺院などで水を貯蔵する用途で使っていた石造 物のことをいいます。「扶余石槽」という名称で知られるこの石槽は、元々百済の王宮址に置か れていたものと推定されています。百済人の美意識が発揮されている形態や細部の表現技法 から、百済の宮殿で使用されていた可能性が高いと考えられます。なお、石槽の表面に刻まれ ている文章が、扶余定林寺址五層石塔の1階の塔身に刻まれているものと同じように”唐が百 済を平定した”という内容になっていることも、その推定を裏付けています。

당유인원기공비 이미지唐劉仁願紀功碑Dangyuinwongigongbi(Monument to Liu jen-yuan)
  • 指定分類宝物第21号
  • 原位置扶余・扶蘇山

660年、羅唐連合軍の一員として百済に攻め込んできた唐の将軍・劉仁願(?~?)の行状を記し た石碑で、元々扶蘇山の中腹にあったものです。行状を記録した碑身と6頭の龍の彫刻が施さ れた碑首(螭首)が一枚岩で作られている、典型的な唐の様式の石碑です。亀の形の台石がこ れとは別に作られていると考えられますが、現在は残っていません。劉仁願の行状を中心に記 されていますが、義慈王とその太子、約700人の臣下が唐へ押送されたことや、復興運動の主 な内容、廃墟と化した都の様子などが記録されており、百済の滅亡の過程と復興運動の様子 を知る上で重要な史料となっています。

승탑 부도 이미지僧塔(浮屠)とは?

僧塔とは、仏陀の真身舎利を祀る仏塔とは異なり、僧侶の舎利や遺骨を祀る石造物のことをい います。僧塔は、塔を意味する”Stupa”を音訳して「浮屠」とも呼ばれます。9世紀以降、師匠の 法統を引き継ぐことを非常に重要視する禅宗が流入・拡大するとともに、僧塔の建立が始まり ました。初期の僧塔は、基壇、塔身、相輪からなり、それぞれの部材が八角形をしている、いわ ゆる”八角円堂形”を示しています。高麗時代以降は、このような八角円堂形だけでなく、円球 形、方形、石鐘形など、多様な形の僧塔が建てられるようになりました。

박물관석조여래입상 이미지博物館石造如来立像Bangmulgwanseokjoyeoraeipsang(Standing stone buddha statue)
  • 指定分類忠清南道指定文化財資料第106号
  • 原位置扶余・東南里伝天王寺址附近(錦城山伝天王寺址附近)

扶余郡扶余邑錦城山にある天王寺の寺院跡とされている場所の付近で、1933年に発見された 仏像です。大きく肥満した顔の表現とは対照的に身体はシンプルに表現されており、頭部と胴 部の幅がほぼ同一の石柱のような形をしています。こうした石柱形の石仏は、論山・潅燭寺石 造菩薩立像、唐津・安国寺址石仏立像、益山・古都里石仏立像など、高麗前期に忠清・全羅地 域で流行しましたが、この石仏もその影響を受けたものと考えられます。

오층석탑 이미지五層石塔Dongnam-ri seoktap(Stone pagoda in Dongnam-ri)
  • 指定分類忠清南道指定文化財資料第104号
  • 原位置扶余・石木里寺址

石塔とは、石製の塔婆という意味の「石造塔婆」の略語であり、塔婆とは仏陀の遺骨(真身舎 利)を埋葬した墓のことをいいます。この石塔は、扶余・石木里にあるノンジョル村の寺院跡から 当館へ移転されたものです。2段の基壇の上に5層の塔身を乗せた五層石塔であり、現在は基 壇の一部と第4層の塔身が消失しています。東南里石塔は、2層の基壇と多層の塔身からなる 統一新羅時代の典型的な石塔の様式を受け継ぎながらも、塔身の幅に比べて高さが高いとい う、高麗時代の典型的な石塔の様式をも示しています。

보광사대보광선사비 이미지普光寺大普光禅寺碑Bogwangsadaebogwagseonsabi(Stele to Nation Preceptor Wonmyeong of Bogwang-sa Temple)
  • 指定分類宝物第107号
  • 原位置扶余・林川面加神里普光寺址

元々扶余郡林川面聖住山の普光寺址にあったもので、普光寺の再建を主導した円明国師・沖 鑑(1275~1339)の行状と再建の過程が記されています。沖鑑は、禅源寺の出身で元に留学し たこともある名高い禅僧でした。晩年の1336年に開京を離れて普光寺に入り、普光寺の大規模 な再建を行ったとされています。碑文は、当時文章家として名を馳せていた元の危素の手によ るものであり、元の楊池と周伯琦がそれぞれ碑文と篆額(石碑の上部に篆書で書かれた題字) の字を書いたといわれています。なお、歳月の経過とともに字が摩耗して読みにくくなったこと から、1750年に普光寺の住職だった能一が字を再び刻み入れています。この石碑は、台石と 角張った碑身からなる、高麗後期の典型的な様式を示しています。

동사리석탑 이미지東寺里石塔Dongsariseotap(Stone pagoda in Dongsa-ri)
  • 指定分類忠清南道指定文化財資料第121号
  • 原位置扶余・世道面東寺里

元々扶余郡世道面東寺里にあったものを1971年に扶余邑双北里に移転し、1993年に再び当 館に移転したものです。石塔は、2層の基壇の上に5層の塔身を乗せた構造となっています。下 の基壇の4面にそれぞれ3つの眼象を刻んで装飾を施しています。上の基壇の蓋石(上層基壇 の甲石)の上には蓮花文が刻まれている塔身の台石があり、四隅には突出した花の装飾が施 されています。塔身は、第1層の塔身に比べ、第2層の塔身から急激に小さくなっています。1階 の塔身には四角い穴が開けられていますが、これは仏像などを安置するための龕室の一種で す。この石塔は、蓮花文が刻まれている塔身の台石や第2層以上の塔身の急激な縮小、塔身 に設けられている龕室など、高麗時代の石塔の特徴を保ちながら、端正さを失っていないこと から、高麗前期に建てられたものと考えられます。

성주사지 출토 비머리 이미지聖住寺址出土碑首(螭首)Monument Top Stone
  • 原位置忠清南道保寧市聖住面聖住里聖住寺址

石碑の碑首は、龍が彫られていることから「螭首」と呼ばれています。こうした形の螭首は、中 国では唐の時代に確立しますが、韓国もその影響を受け、新羅による統一直後から亀趺・碑身 ・螭首からなる石碑が建てられるようになります。韓国では碑身と螭首が別々に作られるのに 対し、中国の螭首は碑身と一体となっているのが特徴です。九山禅門の一つである保寧・聖住 寺の跡で発見されたこの碑首は、蟠龍が互いに絡んでいる様子が彫刻されており、石碑の名 称を刻む題額が円形となっているのが特徴です。聖住寺址には888年に入滅した無染の石碑 が残っていますが、螭首の構成や題額の形が変形していることから、高麗時代に聖住寺に駐 錫していた禅師の碑首と推定されています。

비석받침 이미지石碑の台石(亀趺)Tortoise-Shaped Monument Stele Base
  • 原位置保寧・聖住面聖住里聖住寺址

中国・唐からの影響を受けて作られた石碑の台石は、亀の形をしていることから”亀趺”と呼ば れています。太宗武烈王陵碑に見られるように、初期の石碑の亀趺は典型的な亀の頭部の形 をしていますが、9世紀中頃からは龍の頭部の形へと変化します。保寧・聖住寺址で出土した 碑首と対になっていたと考えられるこの台石は、頭部と胴体部の一部は消失していますが、足 や甲羅の形が写実性と躍動感を感じさせる優れた作品です。

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